関西に行こう②国際国際美術館「クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime展」編
今回の関西詣でで、行こうと決めていた展示がある。
国際国際美術館「クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime展」だ。
大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭、2016年東京都庭園美術館での個展(これは微妙だったが)などの活動もあり、国内でも知名度が上がってきたが、言わずと知れた世界的アーティストだ。
今回の企画展は、ボルタンスキーの初期作品から最新作までを紹介する、国内初めての大規模な回顧展だ。国立国際美術館、国立新美術館、長崎県美術館の3館が共同で企画している。1970年代から近年までの作品を振り返ると同時に、ボルタンスキー自身がが会場に合わせたインスタレーションを手掛けるという構想だ。
はじめてボルタンスキーを知ったのは、大学のフランス文学のゼミだった。フランス語で『La vie possible de Christian Boltanski』を読んだ覚えがある。私含めて2人しか受講しておらず、毎講義で担当する箇所が多すぎて苦労した。プレーンな文章のフランス語を読むのも苦労するのに、内容的にも観念的な部分が多く、非常に読みづらい本だった。孤独を極めたひとなんだな、というぼんやりした感想しか覚えていない。
で、国立国際美術館。ここはいつ来ても静かだなぁ。
入口の時点で生物的な拒否反応。「ここはヤバイ」
薄暗く誰もいない展示室内に、ドクンドクンと心臓の音が響く。黒く塗りつぶされた何か、モノクロの顔、電球の灯り・・・ほとんどお化け屋敷だ。なんちゅう恐ろしい空間を公共施設内に設けたのか。
展覧会に来て、一刻も早く逃げ出したくなったのははじめてだ。死と忘却。重く濃密な空気にあてられて、ホワイトキューブが霊安室のように感じる。作品は墓標。南無阿弥陀仏。
ありふれたお菓子の缶や箱にモノクロの顔写真を貼り付けるだけで、見えてくる。だらりとコードが床に散らばった電球は、遺体のまま打ち捨てられた名も知れぬ人々。電気のつかない電球と、今にも消えそうな灯り。死にゆく命。大量の洋服は遺体の山に見え、ホロコーストよりも東日本大震災の津波を思い出す。大量生産品にことごとく別の意味を与え、死を想わせる。メメント・モリ。
ここで展示されているものの多くは、人や災害によって強制的に奪われた命/名前/存在なので、災害・事件で大事な人や土地を亡くした人にとっては、いまだ直視できないほどつらい現実なのではないかなと思った。
企画展をようやく抜け出し、呆然としながらコレクション展へ。撮影申請をする気力がなかったので写真はないが、企画展を意識した作品チョイスがなされた「コレクション3:見えないもののイメージ」がとてもよかった。このコレクション展をボルタンスキー展と合わせて観るため、あえて大阪でこの展示を観るのもアリだと思う。国立新美術館だとコレクションないもんね。長崎でも観たいけど、どうしても原爆のことが頭をチラついてしまいそうだ。(そういう意味では広島市現代美術館も巡回してもいいのでは)
展示の感想としてもうひとつ。大地の芸術祭など、その土地に合わせてオーダーメイドして制作したインスタレーションをホワイトキューブに持って来た時、ここまで作品そのものの価値・意味が変わる(誤解を恐れずに言えば、作品が「死ぬ」)んだなと思った。個別の作品がいくら優れていても、作品同士の距離が近すぎて干渉しあい、作品の世界にうまいこと浸れない。ギュウギュウすし詰め状態の幕の内弁当みたい。入れ替わり立ち代わりの仕掛けがあるお化け屋敷や見世物小屋的チープな空間に感じたところもあった。ま、日本の美術館が狭いので、海外のでか~い美術館で、ゆとりをもって展示したら違うんだろうけど。
なんにせよ、観られてよかった展示だ。